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生き方は逝き方

最近、身近でいくつものお別れを経験したり、人づてにお聞きしたりしました。生き方は逝き方であるとつくづく思います。

 

患者さまで、その人がいるだけで心が和む、いつも柔らかい空気をまとった老婦人がいらっしゃいました。その方は前触れもなく脳梗塞で眠るように逝かれました。そして認知症を患われていたその方のご主人も、その数週間後、後を追うように逝かれました。ご家族の方には突然でご心痛いかばかりかのお別れであったことと思いますが、お二人とも穏やかで静かな旅立ちでいらっしゃいました。

お二人は地域のために献身的にご活躍になり、多くの方に敬慕されていらっしゃいました。その人生さながらの幕引きであったように思います。

 

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3つの末期がんを患いながら、最期まで生きようとし続けた50代の友人がいました。彼女は私が鍼をしたり手を当てるたびに、そして看護婦さんが痛み止めの注射をして「痛い!」と悲鳴を上げた後でさえ「ありがとう」とこちらが切なくなるくらい可憐な声で感謝をしていました。

 

彼女はすでに骨と筋だけの痛々しい体でした。けれどその姿に囚われずに彼女の本質だけを感じるとき、そこに治療者として恐れや動揺が入り込む余地はありませんでした。お腹や腰に手を当てているとき、私は光り輝く彼女と自分を感じました。私の中から愛おしさがあふれ出すと、彼女の痛みは消え、やさしい寝顔を見せてくれました。それは自分と彼女の境目のない素晴らしいひとときでした。

 

私が彼女に出会ったのは、彼女が逝くほんの数ヶ月前のことで、義姉の友人である彼女を一緒にお見舞いしたのが最初でした。彼女には沢山の彼女を慕う友人がいて、沢山の人たちを導いて、そして友人同士を結びつけて旅立っていきました。

 

なぜ彼女が若くして逝かなければいけなかったか、私には知る余地もないことですが、一つだけ今も引っかかっていることがあります。それは彼女が以前私に言っていた、「人と心から分かり合えたとき、ああ許されたっていう気持ちになるの」という言葉でした。それを聞いたとき、許されたという言葉にとても違和感を感じました。なぜ彼女にそのような自分を許せない自己処罰とも取れる思いがあるのか、私には分からなかったのですが、彼女の意識の奥にそのような思いが根を張っていたのは確かでした。

 

この世に限りなくある、理不尽に思える病魔のきっかけを、私たちが勝手な憶測で推し量ることはできません。とは言え、どんなに穏やかに生きていても、どんなに愛を知っていても、自分を責める思いや人を憎む思いが心の奥で根を張っていれば、それは私たちの心と体をむしばんでしまうのではないでしょうか。

 

それらの心の奥に溜まった淀みは、私たちが常に心と体をゼロ地点にリセットすることで、消していくことができます。それが呼吸法の奥義であり、祈りの本質なのだと思います。(祈りというと宗教的な響きとしてとらえられますが、本当の祈りとは宗教に限定されるものでもなく、自分の小さな願望や欲望とも無縁なのだと思います)

 

 私たち誰もがいつかは迎える死への旅路。その道すがら、一つ一つの怖れや後悔や憎しみ、悲しみや苦しみを、すべて光に変えていくことが、誰にとっても最期の宿題なのではないか、そして究極のところ、治療師が存在する価値があるとすれば、それをお手伝いすることなのではないか。。。彼女が最期の数ヶ月、私と共有してくれた時の中で教えてくれたのは、そういうとても大切なことでした。

 

人生の短さ、長さは幸せの尺度ではないのかもしれない。どれだけ人と深いところでつながれたのか、どれだけ人を愛し自分を愛し周囲の人たちを大切にしたかが大事なのではないか、、、ということを、彼女と心豊かな老夫妻は身をもって教えてくれました。